友子制度と労働組合(講演)

戦前戦後の日本の成長発展を担った石炭産業と、それを支えた互助組織としての友子制度と労働組合

2025年10月12日(日) 15時~17時

立教大学池袋キャンパス 12号館2階会議室

前田和男氏(ノンフィクション作家)

1947年東京生まれ。東京大学農学部卒。日本読書新聞編集部勤務を経て、翻訳家、ノンフィクション作家、編集者。路上観察学会事務局。『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。
著作:『「カチューシャ」とウクライナ戦争~いま甦るプーチンの“笛吹歌”』(彩流社)『昭和街場のはやり歌(正続)』(彩流社)『炭鉱の唄たち』(ポット出版プラス)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)『選挙参謀』(太田出版)『紫雲の人、渡辺海旭』(ポット出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)、『MG5物語』(求龍堂)他。
訳書:O・ハラーリ『コリン・パウエル リーダーシップの法則』(KKベストセラー)、イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)他。

(1)戦前の炭鉱労働を支えた自助組織・友子制度

「友子」といっても女性の名前ではない。会社側に労働安全対策もなく、労働側に組合もない時代、危険な坑内作業に従事する坑夫たちが互助救済と技術の研鑽・伝承を目的として、自主的につくり上げた組織である。江戸時代初期、鉱山を渡り歩く鉱夫たちによって自然発生的に生まれたものがオリジンといわれている。
 3年3月10日間、掘り子としての修業を積むと「兄分」を持ち、さらに3年3月の修業を経ると「親分」を持ち、そこで「一人前の坑夫」、すなわち「友子」として認められる。そして「友子」になれば、「免状」が発行されて他の炭鉱や鉱山に移っても当地の「親分」の斡旋で職につくことができ、労災にあうと「奉願帳」「寄附帳」が発行され所属の当該友子組織はもちろん全国の友子ネットワークから手厚い補償をうけられる。いかに彼らの絆が強かったかは、北海道の産炭地の各所で、落盤やガス突出で死亡した炭坑夫たちの慰霊碑が会社側のそれと友子組織のそれがしばしば並んで建立されており、また墓地では子分が建てた威風辺りをはらう親分の墓石に、それを窺うことができる。
 美唄の三井や三菱の大手炭鉱では、旧態依然とした友子制度には否定的で近代的な労務管理制度のもとにその解消に動いたため縮小をしいられた。
 ちなみに大正6,7年の美唄における三井三菱系の全鉱夫にしめる友子組織加盟者の比率は20〜30%程度であった。
 戦後は、一部では組合幹部を友子のメンバーが兼ねる炭鉱もみられたが、多くの大手炭鉱では、GHQのお墨付きをえて労働組合が急成長するなかで、消滅した。最後の友子の儀式が行われたのは、昭和40(1965)年、夕張炭田であったといわれている。

(2)戦後の炭鉱労働をささえた労働組合

 部落民、ヨーロン(与論島出身者)、朝鮮人ら弱者を取り込む一方で、差別を内在放置することが、運動衰退の一因ともなった。

(2)-1 部落民と炭鉱労働運動

 炭鉱労働は、死と隣りあわせの苛酷さゆえに、明治の最初期にそれを担わされたのは囚人たちであった。だが、富国強兵のための石炭増産という時代の要請をうけ、囚人だけではまかないきれなくなり、底辺で生きる人々が動員されることになったが、そこに待ち受けていたのは、抑圧と差別であった。すなわち、同じ底辺を生きる“同類”のはずなのに「上下」の序列がつくられ分断支配をうける、炭鉱経営者の常套的労務管理政策である。そのなかで、もっとも「下層」に位置付けられたのが部落出身者であった。彼らは、同じ底辺に生きる日本人鉱夫だけでなく、戦時中は半島と大陸から徴用された人々よりも劣悪な賃金や労働条件で差別をうけた。給料が安く仕事がきついだけではない、坑内でも休憩所や便所は別、坑外でも住居は別と生活全般で差別をうけた(筑豊など旧産炭地に被差別部落が数多く残るのはその歴史を物語っている)。
 1960年の三池闘争をめぐって「部落差別を内在させた悲劇」がおきる。
 同年3月29日、三池の主力坑の一つである四山坑正門前でピケを張っていた三池労組員・久保清が、会社側に雇われた暴力団に刺殺される。これが報じられるや全国から支援部隊が参集、闘争は総労働対総資本の天王山決戦としていやが上にも盛り上りをみせる。この事件の発端について、当該の三池労組の組合史『みいけ二十年』はこう記す。

 暴力団は『お前の顔は覚えたぞ』『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた。

 たしかに彼らは大牟田や荒尾一帯をナワ張りとする「暴力団」の構成員ではあったが、ふだんは三井鉱山の下請の土建会社で人夫をして働いていた。つまり「本工」のストライキによって仕事が奪われた「下請け」でもあり、会社からスト破りのために雇われた「傭兵」という単純な構図ではなかった。さらにそこには部落差別が内在していた。
 前掲の組合の「正史」には、それについての内省的な説明はまったくない。だが、当時三池労組の上部団体・総評の“友好組織”であった部落解放同盟の一員として支援にかけつけた上杉佐一郎(後に部落解放同盟委員長)が、自著で問題の核心をずばりついている。

 この時、われわれは、団結館に待機していたのだが、『今、久保さんが暴力団にドスで刺されて死んだ。労働者たちはこん棒や旗竿で応酬している最中だ』という伝令が入ったのだ。われわれはすぐ出動した。(略)ところが、解放同盟の一団が現場に到着し、バスを降りていっせいに『やるぞ』といったところ、日本刀を持ってあばれまわっていた暴力団の彼らが、あっという間にみんな山の方へ逃げていってしまった。
 われわれ解放同盟が出ると、いつの争議においても暴力団が撤去してしまう、ということの意味を、もう少しわれわれ自身も深く考えなければならないと私は考える。(略)親父が解放同盟員で支援にかけつけて暴力団と対峙してみると、その暴力団の中に息子がいる。(略)別にいえば、その息子には全く仕事がないわけなのだ。部落出身ということで就職からしめ出されている。
(上杉佐一郎『部落解放と労働者』1971年、社会新報)

 戦後労働運動史に残るこの事件の内奥には、本工と下請けの分断構造に加えて、部落差別が重なっていたのである。ピケ隊員を刺殺した暴力団の側にも、俺たち底辺で働く者の生活を奪ってなにが「働く者の闘いだ」という反問が込められている。いっぽう、三池労組の幹部たちには、自らのストライキによって下請け労働者は収入の道を閉ざされるという想像力が欠けていた。さらにその背後には部落差別が潜んでいることへの想像力が欠けていた。
 極論を承知でいうと、もし何らかの形で本工と下請け労働者との連帯ができていたら、三池争議はひょっとして労働者側が勝利していたかもしれない。いやそこまでは無理にしても、その後の組合分裂、1963年の炭塵爆発事故、そして1997年の閉山へとひたすら無残な後退戦へと追い込まれることはなかったのではないか。

(2)-2 ヨーロンと炭鉱労働運動

 三池炭鉱が富国強兵を支える原動力を期待され、官営から三井財閥に払い下げられてから9年後のことである。遠浅の有明海に面している三池には、当時、大型船が寄港できる港がなく、はるか対岸の長崎県島原半島の口之津(現・南島原市)まで石炭を伝馬船ではこび、そこから大型船に積み替えていたが、折しも1901(明治33)年の官営八幡製鉄所の完成を控えて、三池炭の需要は増して口之津港の石炭荷役作業の増員が課題となっていた。
 そこへ三池からはるか南の洋上に浮かぶ与論島を超弩級の台風が来襲、これに旱魃と疫病が追い討ちをかけ「死の島」と化した島民の多くは、折からの口之津港での荷役作業募集に応じたのである。苦渋の「口減らし」の累計は6,7千の島の人口の3割近くにも達したという。
 彼らを待ち受けていたのは「ごんぞう」と呼ばれた石炭の荷役作業で、それは苛酷をきわめた。畳もない土間に茣蓙を敷いただけの長屋を与えられ、男も女も、早朝から夜遅くまで、時には徹夜で石炭にまみれ真っ黒になって働いたが、給与は地元採用の人夫の7割でしかなかった。
 それから10年ほどで、三池には浚渫によって直接石炭を積み出せる近代的港湾施設が竣工、与論の人々の多くは島原の口之津から三池へと移ったが、過酷な労働条件に変わりはなかった。それに加えて彼らを苦しめたのは、前述の部落出身者と同様の分断支配と差別であった。それを束の間癒してくれたのは、島の焼酎であり島の唄であり島の踊りだったが、それがまた差別の因になった。
 三池港近くの一画の「長屋」に隔離され、会社から最底辺の下請け労働者に位置づけられた与論の民は、本工たちからも「ヨーロン」と呼ばれてさげすまれた。この差別分断支配の構造は、戦前・戦中をまたぎ終戦直後まで続いた。
 これがいくらかなりとも “改善” に向かうのは、GHQ主導の戦後民主化をうけて労働組合が結成され、与論の民たちの一部も「組合員」になれたことによる。それでも多くは直傭夫という1年契約の臨時工だったが、三池労組は彼らの本工化を会社に認めさせ、少なくとも “表の世界” では与論の人々は “本土人並み” に扱われることになった。
 折しも1953(昭和28)年、三池では、朝鮮戦争後の石炭不況をうけた人員整理に端を発した労働争議が勃発。それは「英雄なき113日の闘い」として、戦後労働運動史上稀な労働側の「勝利」として語り継がれることになるが、その勝因のひとつは、差別に苦しみ続けてきた「ヨーロン」が本工と同じ隊列に加わったことで発揮されたパワーによるものとの評価もある。(蛇足を加えると、しかしながら、どうやら当の組合幹部は分断対象を隊列に加えたことによる運動のダイナミズム(力学)の意味を理解していなかったらしい。もし本当に理解していたら、それから数年後の天下分け目の三池闘争で、前述のように下請けを敵に回し、結果として敗北の道を歩むことはなかっただろうからだ)
 そのため彼らは、その後も部落解放同盟のように “表の世界” に向かって自らを積極的に開くことはなかった。しかし、それがついに大転換を迎えるときがくる。
 三池炭鉱で栄えた大牟田では、毎夏恒例の「大蛇祭」のメインイベントとして「炭坑節一万人総踊り」が行なわれるが、2008年、それに与論からここ三池にやってきた末裔たちが、「ユンヌンチュ(与論人)」を名乗って、初めて参加したのである。背中に赤いハイビスカスをあしらい、袖を与論が浮かぶ紺碧の海の色に染め抜いた法被をまとった一団は、この日のために意匠をこらした数多くの市民参加グループの中でも、ひときわ目をひいたのは言うまでもない。くしくもこの年は、与論の人々が三池の開港にともなって口之津から三池へ移住して百年の節目にあたっていた。
 裏をかえせば、炭鉱(やま)が三池から消えて10年を経てもなお、“氏素性” を明かして炭坑節をうたい踊ることができないほど、「ヨーロン」への差別が根深く続いていたことを物語っている。与論から三池に渡ったユンヌンチュの末裔たちの親睦団体である「与論会」では、これまでにも何度か、「炭坑節一万人総踊り」に「与論会」として参加することが検討された。しかし、地元の人から「ヨーロン」と呼ばれて石を投げられた辛い過去がよみがえり今なお与論出身と名乗れないという会員の抵抗があって、実現しなかったという。

会場参加、オンライン参加ができます。
参加費無料。
会員外で参加を希望される方は、
 application@roaee.org(恐れ入りますが、全角文字の「@」を半角文字の「@」に置き換えてください)
  [お名前・ご所属・参加人数・メールアドレス、会場参加かオンライン参加か] をご明記の上、
 10月10日(金)まで
お申し込みください。
オンライン参加の場合、10月11日(土)までにZoom参加URLをご記入のメールアドレス宛にお送りします。
会場参加の場合、先着順に申し込みを受け付けます。申込みが定員を上回った場合は、参加をお断りするメールをご記入のメールアドレス宛にお送りいたします。