2025年6月19日(木)・20日(金)の2日間、日本初の公害事件である「足尾銅山鉱毒事件」現場を訪ねるフィールドワークを、谷中村の遺跡を守る会会長の坂原辰男さんに全行程を案内していただき実施しました。坂原さんは1986年のスタートから2022年の閉校まで「田中正造大学」事務局長を務められました。参加者はROAEE会員5名と会員外2名でした。
足尾銅山鉱毒事件は、渡良瀬川流域周辺の広い地域に被害をもたらした公害事件です。
NHK for School「足尾鉱毒事件」(https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403277_00000) が概要をビデオでまとめています。


渡良瀬川は、栃木県日光市と群馬県沼田市との境界にある皇海山(すかいさん)に源を発し、栃木県足尾町(2006年に合併して日光市)から山間の渓谷を下って群馬県みどり市(大間々町)で平野部に出て、群馬県桐生市、栃木県足利市、群馬県太田市、栃木県佐野市・館林市など両毛地域を流れ、《渡良瀬遊水地》に入り巴波川(うずまがわ)、思川を併せたあと、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川に合流します。利根川は、さらに千葉県野田市関宿で江戸川を分流させ、江戸川は千葉県と東京都との都県境を下って、千葉県浦安市と東京都江戸川区の境で東京湾に注ぎます。
(群馬県ホームページ足尾鉱毒事件に被害地域の地図があります。)
今回は、栃木県佐野市から渡良瀬川流域に沿って源流部までさかのぼりました。

田中正造展示室があり、自由民権運動のなかで政治家となり、足尾鉱毒事件に生涯を捧げた田中正造の直訴状や遺品、写真、当時の新聞記事、鉱毒被害地の地図などたくさんの資料が展示されています。遺品のひとつに聖書がありました。

佐野厄除大師として知られている惣宗寺境内に、田中正造翁墓所があります。惣宗寺では、1913年に亡くなった田中正造の葬儀が営まれ、5万人が会葬に訪れたといいます。なお、田中正造の遺骨は6か所に分骨されています。

ボランティアガイドの方に案内していただき、旧谷中村の役場跡・雷電神社跡・延命院跡、集落跡などをまわりました。

背の高い実をつけた桑の木が両側からおおいかぶさるような小道を通り、葦が生い茂る一帯を進むと、大きな樹が立つ小高いところにやってきました。ここが、旧谷中村の役場跡でした。
こうした風景は、人びとの生活が消えた以外は、当時と変わらないそうです。
この地で農業や漁業を営んでいた村民たちが、なぜこの地を追い出されたのか? それが、今回フィールドワークで学ぶことのひとつです。

この太田市足尾鉱毒展示資料室には、渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会の運動の軌跡が展示されています。戦後になっても足尾銅山に起因する鉱毒被害が発生したことに驚きます
1958(昭和33)年、足尾銅山の選鉱・製錬工程で発生するスラグ(鉱滓)の固形分を処理した源五郎沢堆積場決壊による鉱毒水が、群馬県の東毛一帯を直撃しました。これに対し太田市毛里田(もりた)地区の毛里田鉱毒根絶同盟が決起し、東毛三市三郡(桐生市・太田市・館林市・新田郡・山田郡・邑楽郡)鉱毒根絶同盟が結成され、県・中央県庁・古河鉱業への抗議行動が繰り広げられました。
1971(昭和46年)に毛里田産米からカドミウムが検出され、農民たちは中央公害審査会へ調停を申請し、1974年、古河鉱業は加害事実を認め、調停が成立しました。
これは、「100年公害」ともいわれた足尾鉱毒事件において、古河鉱業が公害加害責任を認め、賠償金を支払うという歴史的な出来事であり、日本の公害反対運動史上、初めて成立した調停事案です。
資料室(群馬県太田市【公式】「足尾鉱毒展示資料室開室式典」 https://youtu.be/SG2RkEsBsJE?si=M5t7MiNQOTr_t5lH&t=146)には、調停申請書、毛里田地区で減収被害を受けた水稲・麦、写真などのほか、谷中村の鉱毒被害と農民の闘いを描いた丸木位里・俊の大作《足尾鉱毒の図》全6部(1987-92年)などが展示されています。

太田市足尾鉱毒展示資料室

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足尾銅山の方角を望み群馬県太田市毛里田地区の中央に建つ碑には、鉱毒根絶同盟会長・板橋明治氏の「祈念鉱毒根絶」という強い願い、「苦悩継ふまじ されど史実は伝ふべし 受難百年また還らず 根絶の日ぞ何時」という思いとともに、会員九百余名の自署が刻まれています。

1965(昭和40)年に事業決定され1976年に完成した堰堤(えんてい)の高さ140m・長さ405mの重力式コンクリートダムで、「渡良瀬川の治水と首都圏の利水のため」に建設されました。
しかし、草木ダム建設の隠された目的は、上流にある足尾銅山から流れ出る鉱毒を沈殿させることだといわれています。表面の水を下流に流す仕組みになっています。しかし、上流に豪雨があれば濁水がダムの水を撹拌し、基準値を超える鉱毒を含んだ水が下流に流出します。

松木村は、日光中禅寺湖と、山ひとつ隔てた南面の谷に江戸時代から拓かれた半農半林の静かな集落で、明治初期の記録では戸数約50〜60戸・人口250〜300人程度(1876年の記録では、51戸・276人)でした。
1881年に古河市兵衛が足尾銅山の操業を開始し、1884年、松木村の対岸に大規模な「新梨子油製錬所」が建設され、1893年には、さらに大規模な「足尾製錬所」が稼働を開始します。製錬所から発生した鉱毒(亜硫酸ガス)を大量に含んだ煙によって、松木村の農作物は枯死し、桑畑も全滅。養蚕業も壊滅的な打撃を受け、魚も死滅しました。村人の健康にも被害が及び、呼吸器系の疾患を訴える人が増えました。一帯の草木は次つぎと枯れ、周辺は赤茶けた山肌があらわな荒涼な禿げ山に変わり果て、少しの雨でも大規模な洪水や土石流が起きるようになり、畑や家屋が土砂に埋まる被害も起きるようになりました。

問題が大きくなると古河鉱業は「補償」や「見舞金」の名目で個別に土地家屋の買収交渉を進めます。生活が立ちいかなくなり他に生きる術を失った村民にとっては、わずかな金銭を受け取って村を去る以外の選択肢がない、実質的な強制移転であり、村民は次つぎと村を去っていきました。1902年には、最後まで残っていた2戸の住民も村を去って完全に無人となり、1906年には足尾町に戸籍が移されて行政上も消滅しました。
かつて村があった場所は、銅山の鉱滓を捨てる堆積場となり、その後は治水・砂防ダムの建設地となっています。鉱滓には、銅のほか、鉛、亜鉛、カドミウムなどの有害物質が含まれています。砂防ダムには、川の水を滞留させて鉱毒を沈殿させ、下流に流れ出ることを止めるという目的もあるとのことです。はげ山だった斜面に植林が行われていますが、なお草が植えつけられただけで木がそだっていないところも多く、村の痕跡は、ただ山間にわずかにある平らな土地ということしかありません。

足尾銅山周辺の煙害によって、足尾の山々は、2,400haとも3,000haともいわれる地域が荒廃しました。国による戦前の治山事業は砂防堰堤の建設が主で、植林も試みられましたが鉱毒ガスによって立ち枯れてしまい失敗しました。

戦後、栃木県による組織的な植林事業が1956年から始まり、1960年からは国(林野庁)がヘリコプターによる種子や肥料の空中散布を開始しました。1972年、渡良瀬川中流域の毛里田で検出された米のカドミウム汚染をめぐる中央公害審査会の調停(日本で最初の公害調停)で責任を認めた古河鉱業(現:古河機械金属株式会社)および県・国が足尾での植林を約束したことで、緑化がすすみます。
1996年には「NPO法人 足尾に緑を育てる会」が設立され、市民参加による植林が始まり、環境教育として小学校の学校行事としての集団植樹も広がっています。

松木川をはさんだ対岸に、足尾製錬所の煙突が建っています。境内に入ってすぐ左にある墓石が積みあがった無縁塔は、足尾ダム建設により水没した地域の墓石を集めたものです。境内には、大仏や他の石仏が置かれ、坑夫の墓もあります。

渡良瀬川支流の庚申川沿いには1885年から1954年の廃鉱まで、小滝坑が隆盛を誇り、選鉱所・製錬所もありました。「小滝の里」と大書された記念碑が設置されている一帯には、かつて1万人が住んでいました。製錬の操業期間が比較的短かったために、松木渓谷沿いに比べこのあたりは緑が回復しています。
しかし、小滝の里へ向かう手前に設置されていた発電専用の庚申ダムの湖は妖しいばかりの青緑色の水をたたえていました。これは、鉱毒によって色づいているとのことです。大雨によって溜まっていた水が下流に一気に流れ出したら、どのような事態を引き起こすのでしょう?

足尾銅山が栃木県に提出した名簿によると、1940年から45年8月までに2,416人の朝鮮人が連行されたといいます。栃木県朝鮮人強制連行真相調査団が足尾町役場に残っていた当時の火葬許可書と同町の寺の過去帳を調べた結果、73人の朝鮮人の死亡年月日、死因などが判明しました。
1994年、足尾町小滝の小滝専念寺説教所跡地に仮墓標が建てられ、日朝市民の手で追悼式が行われています。恒久的な石の慰霊碑に替える計画があり、すでに募金も集まっているそうですが、様々な事情でまだ実現していません。

日本百名山の皇海山、庚申山の登山口にあるキャンプ場でもある銀山平。この一角に碑と塔が建っていました。日中戦争・太平洋戦争末期、働き手は戦争に動員されて労働力不足に直面した日本は、中国人、朝鮮人を強制的に連行しました。足尾でも257人の中国人が異境の鉱山で労働を強いられ、1944年10月から1年足らずの間に、通訳1人を含む110人が病気や事故で命を落としたのです。
日中国交正常化(1972年9月29日)に際し両国で発表した共同声明には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と記されています。この共同声明にもとづき、戦時下に犠牲になった中国人を慰霊する慰霊塔建立の機運が日本各地で高まり、栃木県でも県知事を中心とする実行委員会が発足し、集まった2,000万円の寄付金で慰霊塔が建立されました。80段の階段をのぼったところに建つ、高さ13メートル、6メートル四方の鉄筋コンクリート製の慰霊塔の基部には亡くなった110名を象徴する石がはめ込まれ、裏面には犠牲者全員の名が刻まれています。

永瀬一哉『足尾鉱毒事件 一人ひとりの谷中村』揺籃社 (2024/9/8)、2,750円 
 *「谷中村」にさまざまな形で関わった方々の、大変に貴重な証言を核としています。

荒畑 寒村『谷中村滅亡史』 (岩波文庫 青 137-3) 文庫 – 1999/5/17
 *明治40年、土地収用法によって谷中村が強制的に破壊されるという事態に接して、一気に書き上げたドキュメンタリー。

田中正造大学https://syozo-uni.net/
 *1986年2月に開校してから2022年秋に閉校するまで35年間、田中正造の思想と行動を学び現代に活かそうと、延べ90回の定期講座、環境保護運動、田中正造生家の完全保存運動等の活動、ブックレット「救現」の発行、写真ハガキ、田中正造カレンダーの発行など普及活動、等々を展開しました。